いままでとこれから

これからの日本の課題を考えてみた。
僕が思うに、労働環境の問題、教育の問題、国民性、国家の在り方。様々な問題がそれぞれに複雑に絡まってどれもよくない状態を招いていると思う。

今回は僕が思ってる日本の問題点をあげてみる。
日本は社会において構造的な悪循環ができあがっているので各要所の問題点を列挙する。


「国民の政治意識の低さ。」

まず、形だけのこの国の民主主義を是正する必要がある。
僕は民主主義のわりにはこの国から国民の政治介入を全然感じない。

この民主主義じゃない実感の原因は二つある。ひとつは教育があまりにおざなりなので国民が政治意識の希薄なまま社会に出ること。
もうひとつは社会保障がダメすぎて国民の無知に拍車をかけてることだ。

まず教育について特にダメだと思うのが、政治に関する教育をとことん手を抜いているところだ。高校生のまま社会に出る大人もたくさんいるわけだから、最低でも高校をでるまでに政治について、日々成長した考えをもてるようにしなければならない。知識と刺激で人の考え方は変わる。しかし日本だと「社会」という教育科目の中に政治、経済、地理、歴史がまとめられていて、しかも選択制になっている。これでは駄目だ。政治、経済はなにがあっても必修であり、そして生徒間で国会で行われている政策についてディベートがなければならない。彼らは大人になって投票権をもつようになる。小学生の視点のまま投票権をもたしてはならない。

このまま大人になると今度は社会人としての忙しい日々が待ってる。
労働の問題だ。
特に低所得者の方々には日々の暮らしで精一杯、わずかな時間で気晴らしをする人たちだっている。日本は言うまでもなく労働者の権利が弱く、労基法が機能していない。この社会保障制度の未熟さが日本人の国政への無関心さや面倒くささを誘発している。社会保障ついでに言うと、福祉が充実しないのだって当たり前だ。介護で働いてる人の最低賃金は10万ちょっとなんてのはざらだ。そんな余裕のない人たちに自発的に国政への意識をもってもらうのは至難のこと。低所得者層に啓蒙もしないままに無知な人を放置するなら、その国は民主主義ではない。知恵を出す環境を整えなければいけない。

具体的に言う。

労働基準法を守っている会社Aと守ってないで社員を馬車馬のように働かす会社Bが、
同じ規模、分野で競争をしたら、勝つのは間違いなく労働基準法を守らない会社Bだ。

そういう人権度外視なことを防ぐために労働基準法はあるのに、
人をあごで使う人たちは中国にGDPで抜かされたことにてんやわんやになってもっと働けと言っている。
形にこだわりすぎて本質が見えていない。人々はだんだんと余力をなくし、受け身になっていき、
社会が働くには魅力的な、ここなら骨を埋められると思える会社は排除されていく。

上記の会社Bのために本気だすのもアホらしいので働く人はみんな与えられた以上のことはやる気にならない。
心のバランスを保つためにわずかに使える気晴らしの時間に生きている意義を見いだすようになる。
貴重な時間を政策について割こうとは思わなくなる。政策について無関心になる。

「画一化されていく国民性。」

上記の教育や労働の問題は、
いまの日本国民の国民性の問題に結びつく。
その国民性とは不幸の共産主義だ。

みんなそうなんだから我慢しろ主義(有給休暇とか)
あいつだけずるいおれにも主義(生活保護とか)
だれかがなんとかしてくれる主義(余裕がなく選眼もないので、自分に責任や役割はないと考える)

原子力委員会教育委員会、政府、官僚などの隠蔽体質。
国民はずいぶんといらいらしていると思うが、
僕はこれが日本人の無関心でどっちつかず(無責任)な自分さえよければいい主義からきていると思っているので、
国民の大衆型の思考が隠蔽体質として反映されてるだけだと思ってる。
もうずいぶん前からこの国は形だけの国になっている。

この国民性はどこからきているのか?
ぼくはこれは国家の在り方からきていると思う。

国家の在り方、姿勢はその国に住まう国民たちの性分を左右する。
国民たちの性分はまた国家の在り方を左右する

(論拠は後述。)

なので国は、常に国民の模範的存在としての意識をもたねばならないと思う。

「国家とはどうあるべきか」

この問いには自由主義について論じた角栄の言葉を借りる。
国家の在り方にも通ずると思うので。

 「子供が十人おるから羊かんを均等に切る、そんな杜会主義者や共産主義者みたいなバカなこと言わん。キミ、自由主義は別なんだよ。羊羮《ようかん》をちょんちょんと切って、いちばん小さい子に、いちばんでっかい羊羮をあげる。そこが違う。分配のやり方が違うんだ。大きい奴には"少しぐらい我慢しろ"と言えるけどね、生まれて三、四歳のは納まらないよ。そうでしょう。……それが自由経済というものだ」

政治、行政の本来の役割は、
民間ではできない採算とは無関係に位置した場所にある。

だから、政治とは弱者に手厚く、強者に薄くなければならず、
国民においては、強者はそれを施すもの、支えるものになるので、
弱者は強者に感謝すること、そして強者はそれにおごらないこと、これは基本である。

しかし今の時代にこういった誇りとか感謝とか
そういう人間的なやりとりには価値がなく、
スポーツマンシップのない競争社会を履き違えた自分さえよければいい主義が横行している。

弱肉強食で貧乏はなんでもかんでも自己責任社会において絆というテーマはまだ内実を伴えていない。

「国家の在り方がなぜ国民の性質を左右するのか」

ということを説明するために過去に役人がおこした不祥事をひとつ紹介したいと思う。

覚醒剤130キロの密輸を意図的に見逃した!? 元刑事が語った北海道警の闇

上記の記事とその記事中に記載されてる生放送をよく見ていただけるとわかるのだけど、
当時の北海道県警と税関は、日常的に"警察管内における銃器摘発ノルマ達成のために、暴力団組織の密輸を黙認していた"のである。
ここに当時の不祥事に関わった稲葉氏の証言がある

―稲葉氏「(この銃器摘発の計画を持ってきたのは)暴力団幹部ですよね。自分のとこに話を持ってきたという感じだね。(覚せい剤を輸入するとかもどこのタイミングで摘発するとかの)回数は具体的には決まってなかったみたいだけど。」
「最初は拳銃とか覚醒剤とか(暴力団が何を入れるか)話は決まってなかったの。だけど、銃器対策課だから拳銃なんだろうと、(暴力団が満足するモノであれば)こっちはなんでもよかったんですよ。要は大量にあがれば、それでよかったって話で。拳銃であろうが大麻であろうが、覚醒剤であろうが。覚醒剤も試薬やって反応でればいい、なんでもいいやと。」
「当時、何百丁と挙げた拳銃のほとんどがやらせだった。8年間の捜査のなかで、実際の捜査による拳銃の押収は、たった2丁」―

実際の音声
36:00〜39:00

なぜその地域では銃が摘発されないのか?それは怠慢ではなく治安維持がうまくいっているからではないのか、
数字だけを見ない人が命令を下す人にいて、その声が聞き取られればこうはならなかったかもしれない。
考える余地はあったはずだ。
世論に煽られてこうなったのか、予算編成のインセンティブのために数字が必要だったのか。
後者だとしたら財務省国家公安委員会が何を考えてるのか。
財務省の予算編成が生中継されてほしいくらいだ。

 僕が見聞きする周りでも数字至上主義はとどまることを知らない。
日本は自分の仕事を他人におしつけたり、多少強引な虚飾をしてでも数字をのばす。
そういう人間が評価される社会になってきているように思える。

なにか大事があった時、そういう人間は責任をとること自体にメリットがなければ責任をとらない。
相手の気持ちを尊重することにおいて責任をとる、そういう発想は持ち合わせていないのだ。
日本の社会構造的に責任がとれる人間は責任をとっちゃうので、出世がしにくくいざというときに要職にいないことが多い。

過剰な資本主義の魔物が人を経済発展へと駆り立て過ぎて人の生きる上での余裕を奪い、それが人間道徳の基本までも脅かしている。

このまま日本の資本主義を敗者はただの自己責任であり、
形だけの民主主義を無知な人間のせいであるとしていけば、
こうやって自分さえよければいい主義がどんどん蔓延していき、
責任をとらずその場しのぎで自分の都合だけを考えるやつが生き残り、楽をして生きていくことが勝者だとされていくことが促進されて行く。


端的な例が生活保護の不正受給である。

このままでは、この国は破綻してしまうんじゃないかと思う。
道徳が軽視されてきて不正受給のような法の抜け穴をかいくぐることがまかりとおるようになると、国民全体がそれを生活の知恵だと考えるようになってしまう。
このままではいままでモラルを持っていた人たちも、ばからしくなってしまい、だれも働かなくなってしまう。
そしてみなが楽をして金を得ることに腐心するようになりわれわれの国民性がこのままでは一億総物乞いになる。

国がずる賢く生きる人間を優遇しているのだ。

思えば『社会』という視点が勝者と敗者で人を区分するようになってから、人は己が人として価値のある人間であることよりも勝者であることを選ぶようになったのかもしれない。

これがさっきいった
"国家の在り方、姿勢はその国に住まう国民たちの性分を左右する。"だ。

話があちらこちらにとびまくってるので、頑張ってまとめる。

教育の問題点
政治教育とリテラシー教育があまい。情報に対して脊髄反射しかできない人間を増やしている。
先の展望を見通す力がないのでいじめで自殺したり、受験と就活で人生が終わったと早とちりをする。
自分の進むことになった道で何をしていくのかが子どもに伝わりきっていない。

労働の問題点
余裕を奪うことで、知識を仕入れたりできずにし、行動力をも奪う。無関心になる。
自分以外のことに構ってられなくなって必然的に自己中になり、
数字をあげるのが大事なのでモラルとか言ってられなくなる。無責任になる

未熟な教育制度と、保障されていない労働環境が国民性を規定し、
その国民性が国家の在り方を左右している。

"国民たちの性分はまた国家の在り方を左右する"のだ

つまり原子力委員会教育委員会、政府、官僚などの隠蔽体質は
国民性がそのまま反映されているだけなのだ。
だから彼らは責任をとろうとは思わない。悪いと思っていないのだ。
そういう人間を作り上げてしまったのは日本における社会の構造的欠陥がもたらした悲劇だ。
その場の問題だけでとらえたら彼らが悪いよ。
でもなぜ彼らがそうなってしまったのかまで考えなければダメだ。

物事をつながりで考えなければいけない

今流行の大津市のいじめ問題もそう。

なんで教師たちが子どものいじめを黙認していたのか、
公園の遊具の撤去にしろ、教師の暴力が問題だと教育現場に
口をはさんできたのはじぶんたち保護者に他ならない。
教育現場がもっと教師という立場を守ってやれるものだったら結果は変わっていたんじゃないだろうか。
PTA の会長の息子であろうと関係ないと思える教師を排除し、
保護者の顔色ばかりうかがう教師を増やしたのは保護者だ。

子どもを叱ってそれが行き過ぎた権限であるとされると
なよなよした保身主義の教師が跋扈するようになる。
保護者の子どもを必要以上に守る考えが子どもを追いつめた。

つまり国民の考えが教育現場に反映されたのだ。

このいじめ問題は『教え』の問題でこうなったのではない『現場の労働問題』が招いた結果だ

だからものごとをつながりで考えずその場に浮かんできたものだけを脊髄反射ばかりしてはだめだ。
当事者の個人の成り立ちだけで結論をだしてはダメ。
物事には判断のつかないことはたくさんある。悪と正義では割り切れることばかりではない
物事を吹き出物のようにただその場その場で処理してもしょうがない。

"なぜそうなったのか?
なにが原因なのか?"

物事をつながりでとらえるようになってはじめてどこから直せばいいのか見えてくる。

結論

この日本の構造的悪循環を繰り返す日本の社会構造を直すためには、
それは、僕たち国民が変わるしかないのです

組織が自分都合主義にならぬために必要なものはずばり監視システムです。
監視がないから癒着が生まれたり、隠蔽が生まれる。
人間の弱さを是認するシステムができあがるのです。

この監視システムという歯車に国民が含まれていないことが問題なのだ。
だから国民による国政参与(選挙)はとてつもなく重要な問題だ。

いいかげん守られない党の公約にすがるようなことはやめて、
自分の目で、立候補者がどんな党に所属しているかではなく
立候補者自身がどんなやつなのかきちんと見極めて選ぶべきです。

だから自分はなにもしなくていい、
各組織の自分以外の人間が自分に厳しくなればいいと思って読んでいる人がもしいるとしたら
あえて言うと、それじゃこの国は永遠に変わらない。
日本の社会問題は国民一人一人が考えて声をあげなければいけない問題です。

僕はそれが教育と労働にあると考える。
教育制度、教育科目は今一度見直されるべきで。
そしてぼくらの労働環境は法の下に保障されなければいけない

人間道徳の基本を尊重される社会、
そういう国民性がつくられるべきだ。

今はネットの普及でだいぶ情報の入手が容易くなった。
ぼくはこの国は絶対にかわれると思う。

本当はもっときれいにまとめたかったのにまとまらなかった。
上手く書ききれなくてものすごく悔しい気分。

ほんとうは労働問題や教育問題についてもっと抗議したいとこだけど

これから僕の活動の順序として当面は
違法ダウンロードを刑事罰化した改正著作権法への抗議活動と
原発です

力のない僕にできることは、まずは知名度のある社会問題を取り上げ、解決に導く本のわずかな一助だけです。

労働問題や教育問題は本丸です。生きているうちになんとかしたいです。