電力会社に求めることと国民の意思表示

前回で述べたことの続きです

『電力会社に求めることと国民の意思表示』

国民の意思表示について先に書くと

本気でこの国を脱原発方面へ導くとしたら、
まず東電の社員を許す以外にないです。だって許さないっていってもどうせ逃げ延びられるんだから。

東電社員が申し訳なかったですと言ってくれればそれが理想ですが、それは期待しては駄目です。それを期待することは許してないことです。
公的資金注入や焼け太りなど言いたいことはとてもわかります。

しかし、他人に正しさを求めてもしょうがないです。自分自身に思えなきゃ。
誰かに恨みをもっている場合じゃないんです。
生きていれば誰だって間違えます。
間違いは数字に置き換えられることもあります。−3してしまったことを+3で補えることだってあります。

でも物事はすべて数字でまわってるわけじゃないから
とりかえしのつかないことをしたら、とりかえしのつかないこととしてずっと残ります。
それはどうあがいても消すことはできません。

だからといってとりかえしのつかないことをしたからってそれで終わりじゃないんです。
数字に置き換えられることは間違いをたくさんおかせばやがて消えてしまうかもしれないです。
でも置き換えられないことはずっと残るんです。
だからとりかえしのつかないことがあるように、
いましかできないこと、その人じゃないとできないことだってあるんじゃないでしょうか。

お互いに嫌い合ってるままではきっと何もかわらない。
弱さのおしつけあいに前進なんてないんです。
要求してるだけじゃ永久にかわらないと思います。

今僕たちに日本国民として本当に求められてるのは、
誰かを責めることではなくて、
真実を導きだすための寛容さであると思います。

人として、求める前にまず至ること。
要求はそれからです
原発に際していえば誰かを裁くようなことが最終勝利になっているのではだめだと思う。

僕はこの国が民主主義として歩み始めるならまずはそれが第一歩だと思います。
そしてそれから政府のだした電力供給のデータが本当にただしいものであるのかを第三者に証明してもらうのです

関電、大飯再稼働なくても電力供給に余力


都道府県のここ数十年の毎月の電力の消費量とそれに必要な供給量はどれくらいなのかを第三者に測定してもらうこと。

それと各地方の電力供給会社の毎月の発電量はどれくらいなのか?

時間帯別の消費量はどれくらいなのか?

1970年から2010年へと電力量の消費はどう推移してきたのか?

一世帯あたり消費量はどれくらいなのか?
集合住宅の消費量、
一戸建ての消費量。
節電にはどれくらい抑えればいいのか?

つまり条件闘争こそが大事です。

これは国民に公示されなければいけない。

原発に賛成するにしろ反対するにしろ、みんな足らないことを前提にしていることをまず疑うべきです。
いままで多くのあやまった情報をだしてきた東電や政府のデータを根拠に言い争いをしていることがもうおかしいです。

ぼくは以前の記事で、真実かどうか判断できないことは最終的に思い込みになると言いました。しかしこれは、これ以上追求できる余地がなかったからこその、思い込みになる、という話です。

僕はまだ地方電力の供給が足りないと思い込むのはまだ早いと思います。中日新聞の記事のようにすこしづつ後だしされてやがてはほんの少しの努力で原発がなくても乗り切れるまでに節電目標の数値がいく可能性があります。

潜在性のある事柄は厳正な査定が通るまでどちらにも判断を偏らせてはならないと思います。
意見が左右にふれるのはそれからだと思います。


今度原子力規制委員会なるものが今度発足します。


「原子力規制委員会」設置法がついに成立した背景で、最後まで続いた「省益優先」官僚の抵抗劇

しかし彼らの精査が本当に厳正なものなのか?

社説:原子力基本法 「安全保障目的」は不要
社説:原子力基本法 「安全保障目的」は不要2

原子力規制委は情報公開を徹底〜細野原発相

先月「我が国の安全保障に資する」と原子力基本法がこっそりと変更させられました。
こうなったら原子力規制委員会での話し合いも基本的には原子力を推進していくことに同意した人間が選ばれる制度になってしまいます。

僕はたとえ純粋にクリアなデータが公示されその結果供給量が足りなくても原発には反対します。
中日新聞のデータを真実として思い込むなら、
関電のかつての一番大きな15%節電目標にしろ、修正されて10%でした。
ほんのちょっとでいい。無理はしなくていいんです。
ちょっと節電しようと日本国民みんなが思うだけで僕は電力供給問題は乗り切れると思います。

橋下知事の言葉を借りれば
もんじゅなどは不可能と言われた夢の技術。日本はそれに挑戦し続けた。それは立派なこと。そうであれば、不可能と言われる新しい電力供給体制に挑戦し直せばいい。
どうせ不可能で困難なことに挑戦するなら、これまでやってきたことではなく、新しい挑戦に舵を切るべきだ。これが僕の政治感覚だ。原発を推進せず、火力もガンガン使えない。そのときにどうやって電力エネルギーを賄うのか。こういうことにこそ、日本国は力を発揮する。 」

携帯電話のスマートフォンの技術にしろ、リッター30キロの車の技術にしろ昔は不可能の技術だった。
試しもしないでみんな無理だと思っていることの方が僕には信じられない。
本当にこれ以上の節電は無理だと思うのは早い。

僕にはあの節電目標という数字は、
「本当は足りているけども、福島原発事故の影響でそれを今更言えなくなっただけ」にしかみえない。

本当の電力消費量が明確になり、本来の節電目標が公示された時。
僕は、個人個人の目標さえあれば節電は達成できると思う。この国にはできる。

今NTTがやっているフレッツミルエネのサービス。
あれは本来なら電力会社がやることだ。
料金の値上げをするというなら現在進行形で消費量を測れるサービスくらいは電力会社が無償で提供するべきだ。
明確な節電目標があるのとないのでは、人々の節電意識がまるで変わってくる。
みんなが今の生活を維持できなくなると危惧して原発が必要だとしているのは、どのくらい自分たちが努力すればいいかわからないから、生活水準を落とすのがなんとなく大変そうなのでとりあえず原発は必要だとしているのだ

たとえば、Aという地域が存在し、その地域の世帯では削減目標10%だとする。
供給は過小に、需要は過剰に見積もるべきなので節電目標はこの場合20%とする。

そうしたら各家庭に20%頼むねとお願いして、次に具体的な数値を述べる
『あなたの家の電力消費量は年間平均4300kWhです。このままなら夏場の最高時には6000kWhになることが予想されます。なので夏場の最高時は4800kWhに抑えるようにしてください。』

こういうだけでどれくらい頑張ればいいのか明確になる。
その上で『そんなに減らせない。』と思うなら、原発は必要派で、
『これくらいならがんばれる。』なら原発不要派だ
これは国民に公示されなければいけない。

そして"実際に日本中で試しに取り組んでみる"べきだ

その結果、日本人が節電目標を達成できなかったら?
それは我々には原発が必要だということになります。それが日本全体で取り組んだ結果なので、粛然と受け止めなければいけない事実です。それがこの国の今ある生活水準を選んだ民主主義に住まう我々日本国民の選択です。
たとえ原発がどんなに危険でもです。僕もそれを受け止めます。
いまさら国際的な批判を気にするもなにもありません。

とくにこれから原発の意見聴取会が行われていき
形式上はそこでの国民の意見が国家政策に反映されることとなってます。

原発の意見聴取会 ずさん過ぎるやり方だ
原発の意見聴取会 ずさん過ぎるやり方だ2

脱原発運動をするにしても、原子力を推進するにしても、
原発の意見聴取会をおこなうにしても
本当に電力供給が足りていないのかどうかクリアな情報をまずなにがなんでもひきだすことが重要だと思います。

それで足りていたことがわかったならまず政府と東電をせめるのではなく、
この問題を私たち国民全体の問題としてとらえる。

そういう姿勢を私たちがもたなければ彼らは何十年かたったあとでどうでもよくなってからでないと本当のことは言わない。

文句を言う前に、なぜそうなったのか、その原因は僕たちには全くないのか、国民全体の問題としてとらえ直さなければ行けないと思う。

何十年かたったあとに、私たちがいまの出来事を歴史としてとらえはじめた時、
実はあのとき電力は足りていたんだ。ただ社会の空気がそれを許さなかったんだ

そういうことは避けなければいけない。

※追記

原発、必要論、不要論にいいたいこと

先ほど述べたように、とにかく"本当に今の生活を維持するために原発がいるのかどうかの情報の開示"が絶対条件です。そしてその上で各家庭の目標値が明確にされてそれで節電努力をしてその結果・・・

必要となった時にいいたいこと

過去記事より抜粋

原発は核廃棄燃料がでます。その後始末は今生きてる私たちでなくその電力の恩恵を被らない未来の人たちです。
原発で働く人たちは今も被曝しています。私たちが今の生活を維持するために。
どんな原発でも事故が起きる可能性を含んでます
事故が起きれば作業員が死に、土地が死に、周辺住民は様々な症状、白血病や癌に悩み、警戒区域で家畜を飼ってれば殺処分、
ペットはおきざり、ふるさとには帰れなくなる可能性があります。

とりあえずであれ、原発の存在の容認は、上記のリスク全てを容認することではじめて成立します。

知らないまま、汚いものをみないまま生きていくことはできないんですよ
原発に妥協する場合は『安全かもしれないから頼ろうよ』ではなく『いちかばちか頼っていきましょう。』です。今回のように備えていたり、いくら安全だと言いはっても"想定外の事故"は起きるわけです。人が住めなくなってるんだから。

肉料理がおいしくいただけるのが動物の犠牲の上に成り立っているのを認めるのと同じように、こういった割を食う人たちがいる。ということを受け入れてください。

不要だった時

生活水準に文句を言うのはダメです。
ライフスタイルが変わる覚悟もないのに脱原発はぬるいです。

電力会社に山ほどいいたいことあるでしょうけど、
文句ばっか言うのではなくて、いままでのずさんな対応から一転して
クリーンなエネルギーにシフトしていく姿勢を評価しましょう。