ニートになりたい

作詞 俺
作曲 斉藤和義

営業にまわされて 残業でなくなる
働く意味がない レコード屋を巡る
地方へ左遷されて さっそく村八分
俺の手柄はいまあいつの数字になる

営業不振で人員削減
トカゲのしっぽは望むところだ

働きたくないニートになりたい
社会のために生まれたわけじゃない
ニートになりたい 外にでたくない
働くために生まれたわけじゃない 

googleアースをつかって世界ご当地巡り
ハロワにいきたくないアロハをしにいきたい
母はきっと言うだろう 『早く働いてね』と
『無理はしなくていいから お金は入れてね』

ニートでありたい面接めんどい
親の目盗んでサボる暇もないさ

働きたくない 紐になりたい
靴を履くために 生まれたわけじゃない
家にこもりたい ゲームがしたい
新作やりたい ニートになりたい

失業保険でニートを満喫
ブラック内定 地獄がはじまる。 

働きたくない社畜をやめたい
会社のために生まれたわけじゃない
ニートになりたい休みがほしい
働くために生まれたわけじゃない
働きたくないニートになりたい
社会のために生まれたわけじゃない

ライブをします

2012年10月10日 21:00~05:00

東京都立川市柴崎町3-10-4 コーラル立川ビルB1F

Dj。ライブ。お酒。

場所、立川A.A.Company

Door \1500-1Drink


出演時間帯は22:00予定です。
おしたらもうちょっと後ろですし、前倒しもありえます。

バンド名はメガホン。

出演メンバー
@_bokuchin
@tn__garcia
@tomoq13

日本人アーティストのルーツ

僕が勝手にこれとこれは日本人のルーツだろうと思ったものをいくつかあげていく。

R.E.M.スピッツ (ギター)
エルヴィスコステロMr.Children (うたい方)
ストーンローゼズとアリスインチェインズ→hide (なんとなく)
king crimson植松伸夫 (なんとなく)
ラモーンズ大槻ケンヂ (フレーズ)

R.E.M

スピッツ

コステロ

ミスチル

わかりやすいのこれしかみっけられなかったなう。

ローゼズとアリチェン。ローゼズから。

hide

アリチェン

hide

アリチェン

22秒から。

キングクリムゾン

植松伸夫、47秒から

ラモーンズ

大槻ケンヂ、22秒から
D

違ったらまじうけぴー。

君と二人なら

Just the Two of Us という曲がある

別れる前に聴くか、
別れた後に聴くかで印象が違う曲。

僕はジャンプを毎週読んでいる。
どうだ純真だろ〜?ワイルドだろ〜?

パジャマな彼女という漫画で主人公のけいすけがこの曲を聴いていました。

二人のヒロイン、まくらと雪姫との間で揺れるけいすけ
しかし、幼なじみのまくらがすれ違いの中で遠くへいってしまうことを受けて、
彼は自分の本当の気持ちにけじめをつけるため、
雪姫のことは選べないと告げます。

まくらがいなければ、けいすけは間違いなく雪姫を好きになっていた。
「好きって 何なのだろう」
やがて、まくらが遠くへ旅立ってしまうその日がきます。
彼はまくらを見送ろうとせず、ベッドの中で悶々とした思いにふける中この曲を聴きます

『君と二人なら なんだってできるよ』

雪姫と過ごした日々を思い返した後、
けいすけはまくらのもとへ走り出すのです。

どうする?原発

こんにちわ。賛成派のぼくちんです。

動画内でききとりずらいところがあると思うので文にしておきます。

D

前回の反省点を踏まえて。iPadにまとめました。
結構短くしたつもりですがそれでもちょいながです。

短い動画はしたにあります。結論に急ぐ童貞はどうぞ下の方へ。

【前置き】

僕は原発賛成です。ただそのことを述べる前にいくつか説明をいれます。

まず前提として、
電力が足りてなくて、それが節電とかちょっとしたこころがけ(エアコンの規定温度をあげるとか)で、どうにもならなかった場合・・・

ぼくは賛成を表明します。

僕はこの国が民主主義になったらいいと思ってる。いろんな人が自分の意見をもって、言って。周りの人にあわせないで。
今この国は不幸の共産主義だから。

だから、僕はこの原発の問題をこの国に住む一人の人間として僕が思ってることを言いたい。

【ネットの空気】

僕がまず気になったのが、
なんでネットでは表面にあらわれるのが、反原発の声が大きく、賛成やよくわからないという意見が少ないのかということ。

僕が思うにみんな原発賛成だと言うことに後ろめたさがあるというか、後ろめたさがあると人は行動力を失うと思うんですよ。後ろめたさについてはあとで言います。

そんで不満とか怒りってのは人を吐き出す方向へと促すと思うんですよね。

僕自身原発反対でしたしそういう感情を抱えていた

それはどうしてわかってくれないんだって気持ちでも同じで、

やさしさとか誰かを思う気持ちもおせっかいという形でエネルギーとして発せられやすい

それに原発反対だということは、モラルとかを考える人間としてとても素敵だと思う。見栄えが悪くない。

『みんな幸せになろう。不幸を避けよう』って気持ちが強く伝わってくる。

発信者はそうやって人間的な叫びを代弁した気持ちいいこと言って終われるから、原発反対は意見発信のハードルが低い。

だから結果として人間性の支持を得やすく、人間を能動的にするものが根源にある反原発の声が、見た目には大きくなりやすいんだと思う

それにネットやってる受け身側の人間も、情報開示する側も人間だから、
刺激的なものとか、極端なものが取り上げられやすいと思う。
だから曖昧な意見ってのは目につきにくいってのもあると思う。

これも結局社会というかネットの空気みたいなもので、
匿名だからと言って漏れがないわけじゃないんだよね。

でもさ、実際に(原発関連に強く動かない人たちへ無理に答えてもらうように)ニコ動でどうする原発アンケートとってみたよね
(まあ、あのアンケート信じる信じないも自由だけど)

『よくわからない』とか、『判断がつかない』という、いままで目立たなかった意見が実際には大多数だった。

この『よくわからない』という大多数のサイレントマジョリティがでた理由としては、ただたんに情報が整理されてなくて判断できないからでなく、

「自分さえよければいい」、「おれはおれの人生で精一杯なんだ」、そういった声を封殺している結果の表れでもあると思う。

ネットの空気というか圧力だと思う。匿名であったとしてもでてしまっている。

こうやって俺が原発賛成だっていうこともちょっとハードル高かった。
まぁ顔だしてるけどね俺。

自分が代表意見みたいな、そういう意見がおこがましいのはわかってるけど、

多くの人が賛成だって言いたくても言えていないんだと思う。
僕も正直すごい怖い。特にこういう形は一生残る履歴書だから。

まぁじゃあなんでやってんのってなるけど。
まぁ俺いいこでいたくないから。

【人に求めること、自分に求めること】

僕も以前は原発反対派でした。
理由としてはモラルや人間性を尊重した理想像を俺自身目指してたし、世の中もそういう思いやり社会になってほしかった。

でももうそうは思えなくて。

今思えばそれがおしつけがましかったなって思って。
人を想え!想わなきゃいけないんだ!みたいなかんじがして

おれはもういいこでいなきゃいけないことがもうとても窮屈で、

原発の人に言いたいのはさっきもモラルとか理想像とかに触れたけど、
みんなさ、人に言えるほどのことを自分に道徳としてかすことはできるの?

他人のために、人間として立派にありたいなんて本気で思っているのか?

そんなに自分に対して厳しくできるのかな。俺たちみんながアスリートじゃないし、人間として聖人君子になっても誰かが認めてくれる人がいるわけでもない。というより認めてもらうために聖人君子になるのも本末転倒だし。

電力が足りなかった場合、身を削るってほんとうにしんどい。

身を削るのとかって自発的なもので明確な線引きが規定されてないから、取り組み自体に個人差がでるし、終わりが見えない。



じゃあ国が政策として規定をきめて節制をやっていくならどうなるのか?
どこまでが身を削ることでどこまでがちょっとした努力なのか

この国はみんな不幸ならみんな平等みたいなとこがあるというか。
ぼくは日本人は封建的で受動的だと思ってて。おしつけられたことはこなすと思う。

ただそういう脱原発への努力ってのは個人差だってでるわけだから
さっきも言ったけど国が努力の範囲を規定していく必要がある

そのうえで不平等にならぬよう、取り組みに差がでないように、
累進課税方式でやれる方向を見出していけばうまくいくと思う




でも結局こういうのって民主主義じゃない。国にぼくらの在り方をコントロールされている

そうやって痛みの分かち合いとか絆とかいってもさ、よけい窮屈になるだけだろうから嫌なんだよね。

俺たちがどうありたいかってことが俺は民主主義だと思う。
国民に主権がいまないんだよ。



じゃあ国に頼らず民主的に自発的に取り組もうって場合になるんだけど、自発的に自分に厳しくするのを望むのもさっきも言ったけど怪しいことだと思う。

みんな誇りとか善行に大した価値をおいてないから。
人の顔色伺ってどくにもくすりにもならないこといったりやったりで
けっきょくなにもおこなわれない、すすまないと思うよ。

例えば
さされている傘をとらない。ゴミのポイ捨てはしない。
原発の身を削る行為ってこういうのより遥かにうえの意識が求められる。

身を削るって尊いことだけど、それみんなができるのかな。みんなができなきゃいけないんだよ。自発的に。

見知らぬ誰かを想うって本当に難しいことだよ。
余裕がある人ばかりじゃないんだよ?

結局、他人をおもいやる社会とかさ、脱原発によるモラルの形成って、
そこに無理があったら俺たちの生活を窮屈にすると思うよ。
自分のことしか考えない人はどんどんくずやろうって風潮になっていくと思う。俺もそう思ってたし。
でもそういう考えってさ、なんか自分を犠牲にしすぎてると思う。
まわりにおしつけ、おしつけられて、自由がないよ。
できもしないことを標榜してもみんなできなくて破綻してしまう。



【モラルが人を封殺する】


今回のアンケートひとつの結果で、簡単に決めつけることはできないけど、よくわからないっていうサイレントマジョリティの意見は、情報がなくて判断、ができないっていうのもあれば、賛成だって言いづらい空気があるからとか、他にもいろいろあるんだろうと思う。

でも俺が一番思ったのは、みんな揺れているんだなって思った。

だってさ誰が(自分の言葉を)見てるかわからないじゃん。
この動画だってもしかしたら原発関係で害を被った人とか
原発のせいで避難されたことを余儀なくされた人とか
家畜を置き去りにしてきた人もみるかもしれない。

やさしいから、他の人間のことなんてどうでもいいだなんて賛成の人言えないんだよ。

でもかといって、知らないだれかや、未来の人たちのために身を削れるかっていうとそうではない。

社会って建前だからさ、モラルとか大切にするけどさ。いまの日本人の考え方の流れってのは、
もう武士としてどうあるべきかとかじゃなくてさ

やっぱり楽したいしさ、楽しいことたくさんしたい。つらいことなんてやだってことなんだよ。

さっきいったうしろめたさでもあるんだけどさ、

欲望に忠実に、
人生はさ、金と名声と好きな人と仲間や趣味、家族って言えばいいじゃん。
人生なんて好きなもの満たせばいんだよ。

僕はね、はっきりさせたらいいと思ってる。みんな他人の人生を生きる余裕はないとはっきりいえばいいと思う。

俺はもう絆とか、痛みを分かち合うとか、終わればいいと思ってる。

そんなの知ってる人間にだけ通わせればいい。

俺はいうけど、
社会のために身を削るって気持ちはわかるけどさ、そういうの個人差が出るもので。
そういう人がさ、俺無理して欲しくないし。

分け与えるのは余裕がある時でいいんだよ。
自分の幸せを削って他の人間の幸せを成り立たせてもしょうがないよ。

他人に求めるのだって
自分からみて余裕がありそうでもさ。
その人が分け与えてないのは、やっぱその人には余裕がないんだよ。
それなりに持つものが増えると、背負うことも増えれば、心が飢えてく人もいるから。

だから他人に求めるのってなかなか難しい話で。
身を削るほどの反原発ってさすごいおしつけがましい。とても窮屈。

補足(【補足1】ちょっとの努力で電力不足をなんとかできるのなら、【補足2】『身を削る』ではないので、僕も原発は不要です。【補足3】なので電力が不足しても原発に頼らない場合、【補足4】なにが身を削ることなのか、なにがちょっとした努力なのか、【補足5】国が国民にヒアリングをかけて規定する必要があります。【補足6】その結果、脱原発のために無理のある取り組みを強いられるなら、【補足7】やはり窮屈なので原発賛成です。【補足8】さほどたいしたことがなく気軽に取り組めるのであれば、【補足9】原発なくせばいいだけの話だと思います)

【賛成、原発に伴う愚かさを受け入れること】

賛成っていうからには言わなきゃいけないこと今から言う。
その賛成に伴う愚かさと、個人としての俺の意見を。

原発は核廃棄燃料がでます。その後始末は今生きてる私たちでなく
 その電力の恩恵を被らない未来の人たちと、そしてその地元民。
原発で働く人たちは今も被曝しています。私たちが今の生活を維持するために。


そして原発は危険です。
なにがあっても安全とは言えません。原発は危険です。

安全かもしれないから頼るのではないです。
『明らかに危険ですけどいちかばちか頼っていきましょう。』です

いくら安全だと言いはっても"事故"は起きるわけです。人が住めなくなってるんだから。

準備をしていなかったので人災と規定しても
準備を完璧にしてて想定外の事故、天災だと言い換えても。

どちらも安全だって言えないんですよね。

人災はとくに無理がある。その仕事にとりかかる人がずっといい人だとは限らない。
人災の方が防ぎようがないと思う。

事故が起きれば作業員が死に、土地が死に、警戒区域で家畜を飼ってれば殺処分、
ペットはおきざり、地元民は避難したあと二度と帰れなくなる。

東海村JCO臨界事故の画像とかも見た。

そういうの全部意識した上で、

僕は原発に頼る。

それが僕の選択。

D

【結論】

こっからは僕がツイッターに零した言葉でもあるんだけど、

僕は自分のあこがれみたいなのはあった。舜帝みたいな。それになれるものならなりたい。でも僕はそれほどの大きさをもってないって気づいてしまって。我慢ができないんだ。なりたいものになる以前の問題で、僕は窮屈さにのまれたくないだけなんだ。自分のことだけでいっぱいいっぱい。

なりたいものにはなれない。でも僕は言いたいように言うし、やりたいようにやる。怖くない訳じゃないけど、ただそうしたいし。そうやるんだ。

僕は原発に賛成だ。僕は最低な人間だ。

俺もあんなものに頼りたくないし、他の発電方法と同じ位置づけで考えたくはない。でもあーゆうニコ動アンケートは衝撃だった。人は人間 として立派になることなんて望んじゃいないんだって。ましてや身を削るほど。みんなやさしくてもさ。それは俺だって。なりたいと思ってても、本気じゃないんだよ。

正当な発電方法として原発を位置づけないで電力が足りているなら原発には頼らなければいい。

でも僕は電力が足りてないと仮定し、脱原発が日々の生活の中の節電や心が けですむものでなく、それこそ節制レベルで身を削るレベルまで達するものであるなら僕は原発に頼る。

それが僕の忍耐力、キャパシティを超えているから。
僕は知らない誰かを気遣えるほど余裕を持ち合わせてない。
会ったこともない人に絆なんて感じてない。
日本人同士の連帯感とかない。
僕は、自分の人生だけで精一杯なんだ。



理想像はあった。でも僕の人間性はそれに遥かに及ばない。僕はいままで何に怒っていたのだろう。なにがやりきれなくて、なんでみんなわからないんだって思ってたんだろう。

そう思った時、
自分のこういう怠けた部分を鑑みてさ。
自分がこの原発問題に怒りを感じるほど、人を愛してはいなかったんだなって気づいた。マザーテレサのような高潔な人間ではなかったんだよ。
周りからしたらマザーテレサじゃないことはあたり前のようにうつるかもしれないけど、それでもショックだった。
なんか人のためにとかさ、みんな幸せになるとかの自分の考えがすごい嘘臭くさくなってきて。
僕は自分の人生が一番なんだ。

【まとめ】

最後にだけど、電力供給の情報あらいだしてほしい。もう一回。

情報を引き出すことと、
引き出しやすい方向に促すことだよね。
情報だして文句言われてばかりだと電力会社はすねると思う
クリーンエネルギーへのシフトへの評価はきちんとされるべき。

俺はこうやって他人のために犠牲になれないってことを言ってるわけだから、
もしそれで電力が足りてたら、
本性を隠した人たちに、俺は人道的でないと言われて終わりだろうけど、
それでいいから、
とにかくほんとうの供給量が明示されてほしい。

『実は足りてました。』
これが本当の不幸だよ。

なにを信じるのかは自由だけどね。
でも待ってほしい。とくに脱原発派の人。
その信じたものをもとに主張することが本当に脱原発につながるのかってこと。
国が足りないって言ってる限りは、原発はなくならない訳で。
足りてるからいらないと主張することではなく、引き出すことのほうが大事だと思う。

その上で供給量が明示された時、

電力が全然たりてるのか、
途方もないほど足りないのか。
努力次第でなんとかなるのか。

努力次第ってのは、
こころがけ程度なのか、
身をけずるほどなのか

そしてどこからどこまでが、こころがけで、身を削ることなのか、
明確な定義がいる。


それで、もし電力が身を削らなければ足りなかった場合。
ぼくは割を食う人間がいることを意識したうえで、賛成だよ。


それが俺の選択。俺の生き方。
いきることは殺すことだから

原発アンケート

よくわからないほど、どちらにもよらない意見や妥協案を選択すると思う。誠実な回答結果だ。 判断できる材料がないと多くの人が感じている。原発問題が整理されきってないことの証だと思う。1年半経ってもまだ議論するだけの位置に達していない。

どうする?原発アンケート

資源の問題や安いとか高いとか次元の低い議論で必要不要を唱えている。
外交ってなんのためにあるんだよ。

使用済み燃料だってうけとめてくれるとこが無限にある訳じゃない。
だれも受け入れてくれなくなったら、もうやめるしかないのは目に見えているのに。無理矢理利権でこじあけている。問題を先送りにして。



今回このアンケートのことも含めて、原発賛成ってことで動画投稿した。

本当はどっちも反対があればそれを選びたかったが、
2極にふれた選択しかなかったから。賛成を選んだ。
ずっと反対だと言ってきたけれど。正直今の反対の流れは好きじゃない。
俺はパキスタンのような分離独立にはならない。


賛成と反対だと言うのは早すぎる。
提示された2択だけが正解とはどうも思えない。
20年後に『実は電力足りてました。他に方法がありました』はほんとにいやだ。

節電でなんとかなるのならしたい。

個人の取り組みならエアコンを掃除するとか。

メーカーさんは省エネの商品作るとか。
国がそれを助成するとか。

どうにかなる数値で原発と向き合うならやれることってあると思うんですよね。

知恵も、取り組みも、十分に満たされないまま、共有されないまま結論に走るのは違うと思う。



それで情報の精査が行われて、全然電力足りなかったときの選択をどうするか。

できる限り節電して行く方式という選択をとっていくのか。
(ただ個人的にこういうのは隅々まで行き届かなければ、努力の個人差がでてしまうと思う。節電全てにいえることだが。)

原発をひとつの発電方法としてしっかり受け入れて生きていくか。
そのときは大多数の国民が最終的にそういう選択をしたのだから、運命共同体じゃないけど、一蓮托生として受け入れなければいけないのだと思う。
割を食う人がいても。ぼくらがいつも肉料理をたべているように。



情報がなくて判断がつかないのはわかるけど、

電気に頼ってこの国で生きていくなら、
足りなかったと判明したとき、知らないふりはできないよ。

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